スフィンクスの謎:ヘーゲル『精神現象学』Ⅶ宗教 A自然的宗教 c工匠より

ヘーゲルの『精神現象学』にて、

スフィンクスの謎について記述されている部分があったので

そこを引用し要約しよう。

 

まず、参照される部分とは

精神現象学』Ⅶ宗教 A自然的宗教 c工匠である。

ここで言われる「工匠」とは、

精神は当面の場面では、したがって工匠としてあらわれ、だから精神のふるまいは、それをつうじて精神がみずから自身を対象として産出するものではあるけれども、じぶん〔が「なんであるか」について〕の思想をいまだ把握しているものではない限り、いわば本能的にはたらくことであって、それはハチがじぶんの巣を建てるようなものなのである。

ーー『精神現象学』〔熊野純彦訳、ちくま学芸文庫〕、411頁

 

では、問題の「スフィンクスの謎」を見ていこう。

[石と像という]ふたつの表現がふくんでいるのは、内面性と現に存在するあり方(Dasein)である。これはつまり、精神の双方の契機ということだ。だから表現は両方ともふたつの契機をふくむことになるけれども、それらを同時に対立する関係においてふくんでいる。すなわち「自己」を「内なるもの」としても〔黒い石〕「外なるもの」としても〔メムノン像〕ふくんでいるのである。双方が統合されなければならない。人間をかたどって造られた彫像にはたましいがあるとはいっても、そのたましいはそれでもまだ内なるものにもとづくものではないから、いまだことばとはなっておらず、つまりそれ自身において内的な現存在ではない。さまざまにかたちを帯びてそこに在るものに内なるものがぞくするとはいえ、その内なるものにはそれでもなお音がともなわず、内なるものはそこではじぶん自身のうちで区別をもうけないものであって、みずからにとって外なるもの、いっさいの区別がそこに帰属するものからはいまなお分離されている。工匠がそれゆえ双方を統一するが、それは自然的な形態と自己を意識した形態とを混淆することによっておこなわれるから、かくて生じるのは両義的な、それ自身にとってさえ謎に満ちた存在者〔スフィンクス〕である。そこでは意識されたものが意識されていないものと格闘し、単純に内なるものが多様な形態を与えられた外なるものと格闘して、思想の冥さが表現の明晰さと対をなしつつ、突然ことばを発するにいたるが、そのことばは深遠な、理解しがたい智慧に充ちているのだ。

ーー『精神現象学』(熊野純彦訳、ちくま学芸文庫)、416-417頁

スフィンクス=石と像がふくんでいるのは「内面性」と「現に存在するあり方」のふたつの契機である。「自己」を、しかし「内なるもの」と「外なるもの」との対立するものをふくんでいるのである。

 彫像にはたましいがふくまれるといっても、内的なものには基づいていない。工匠は内なるものと外なるものを統合しようとするが、自然的な形態と自己を意識した形態とを混淆することによって行われるため、両義的な謎に満ちたスフィンクスである。

 そこにおいて、意識されたもの/内的なものと意識されていないもの/外的なものとの格闘が起きるが、それは理解し難い。

 

次の段落にいこう。

この最後の作品にあって、本能に類した労働はおわりを告げる。そうした労働によって産出されたのは、自己意識に対立する、意識を欠いた仕事だったのである。そのような作品においてひとを出迎えるものといえば、それはーー工匠の活動が自己意識をかたちづくるのに対してーーおなじように自己を意識した、みずからを言明する内なるものであるからだ。工匠はその活動にあって艱難辛苦して労働をかさね、じぶんの意識が分裂するところまで至ったけれども、その分裂において精神が精神と遭遇するので在る。このようにして統一が、自己を意識する精神と精神自身とのあいだでなりたっており、そのさい精神が自身にとって形態であり対象であって、その形態と対象が精神の意識にぞくしているかぎりでは、くだんの統一のさなかでしたがって、精神の例の混淆ーー直接的な自然的形態の有する無意識的な様式と、精神との混淆ーーは純化されている。こうして〔スフィンクスといった〕あの形態についても語りにあっても、またおこないにかんしても途方もないものが解体して、精神的に形態を与えられるものとなる。すなわち外なるものでありながら自身のうちに立ちかえっているもの、内なるものでありつつみずからの外に出て、じぶん自身において外化〔し、表現〕するものとなるのである。これは思想となることにひとしく、この思想はそこにある存在であって、それはみずからを産み出し、みずからの形態を適合したかたちで保ちながらも、なおも明晰な存在なのだ。かくて精神は、芸術家となるにいたる。

ーー『精神現象学』(熊野純彦訳、ちくま学芸文庫)、417-418頁

スフィンクスにあって、本能に類した労働は終わりを告げ、産出されたのは自己意識に対立する、意識を欠いた仕事だった。それは、工匠の活動が自己意識をかたちづくるのに対し、おなじように自己を意識した、自らを言明するうちなるものである。

 工匠はじぶんの意識が分裂するところまで至るが、その分裂において精神が精神と遭遇する。統一は、自己を意識する精神と精神自身とのあいだでなりたっており、そのさい精神が自身にとって形態・対象であって、形態・対象が精神の意識にぞくしているかぎりでは、統一のさなかで精神の例の混淆は純化されている。

 スフィンクスのような形態についても、おこないにかんしても途方のないものが解体して、精神的に形態を与えられるものとなる。

 外なるものでありながら自身のうちに立ちかえっているもの、内なるものでありみずからの外に出て、じぶん自身において外化・表現するものとなる。

 これは思想となることにひとしく、この思想はそこにある存在=ダーザインであって、みずからを産み出し、みずからの形態を思想に適合したかたちで保ちながらも、なおも明晰な存在である。そして精神は、芸術家となるにいたる。

 

 工匠から芸術家にいたるまでのプロセスにおいて、スフィンクスという存在は一つの契機となっている。この直後から「芸術的宗教」という説が始まるが、自然的宗教から芸術的宗教への展開がスフィンクスという存在の後に立ち現れるのだ。