何やるのもだるい
そんなときはゴロゴロしながら読書するに限る
ゴロゴロしながら読書する習慣を身につければ
省エネ間違いない
そして私はカントの『純粋理性批判』やハイデガーの『存在と時間』を読み切ったのである
寝転がりながら
論文も寝転がりながら書く
翻訳も寝転がりながらやる
メールも寝転がりながら返す
僕は地球の重力に逆らわない生き方をしている
地に足をつけろというが
僕は全身を身につけている
だから地球は尊い
これがものぐさ道だ
何やるのもだるい
そんなときはゴロゴロしながら読書するに限る
ゴロゴロしながら読書する習慣を身につければ
省エネ間違いない
そして私はカントの『純粋理性批判』やハイデガーの『存在と時間』を読み切ったのである
寝転がりながら
論文も寝転がりながら書く
翻訳も寝転がりながらやる
メールも寝転がりながら返す
僕は地球の重力に逆らわない生き方をしている
地に足をつけろというが
僕は全身を身につけている
だから地球は尊い
これがものぐさ道だ
まあそもそも女性が優遇されるのは当然で
僕らはみんな女性のお腹から生まれてきてるんだから
人類の起源は女性に決まっているのだ
なのに社会は男性優位にして
女性を不当に地位を下げている
男性の筋肉は女性を支えるためにあるのであって
お姫様抱っこするためにあるのだ
そういうわけでいかに女性を優先すべきかだが
席は女性に譲る
大学のポストも女性に譲る
女性枠を認める
他には
女性をエスコートしたり
女性に色々譲ったり
騎乗位を優先したりと
そういった細かい気遣いが大事なのだ
さあ明日から実践しよう!
We Women!
久々の書評ですが、やっと書けます。
今回は田上孝一大先生の『疎外論入門』です。
疎外というのは「人間の本質が人間にとってよそよそしくなること」と定義され、疎外論といえばマルクスのイメージがあるが、
本書は疎外論の歴史をマルクス以前に遡り、またマルクスを超えてそれ以降の疎外論の展開まで記述されている。いわば疎外論史もしくは疎外概念の観念史と言っていいだろう。
マルクス解釈には疎外論の他方で、物象化論を取るという立場があるが、それを避けずにルカーチの物象化論を代表に取り上げて、物象化論を批判する。その手つきは非常に明快であり、虚心坦懐なマルクス読解に基づく批判が展開されているので非常に納得ができた。欲を言えば、廣松の物象化論批判もやってほしかったが、そちらについては以下の論文を読めば十分であろう。
私個人の関心としては、疎外が人間の本質からよそよそしくなることということに関連して、人生の意味と疎外について考えたいところであるが、これも田上先生の書籍を読むことで感化されて誰かがやってくれるのではないだろうか。
ともかく、疎外は資本主義社会の問題であり、客観的なよそよそしさである限りにおいて、個人で回復できるものではなく、社会の革命という飛躍の末にようやく回復が実現されるものだろう。社会主義を理念としてもち、資本主義のもたらす現実に目覚めさせられる、そんな読書体験であった。
今年もたくさん働いた。
新年度はとかくあわただしく、せわしない。
これが人間社会というものなのならば
いっそのことピラミッドの近くで動かざるスフィンクスのごとくになりたし。
さて、転職して居住地も変わり
心機一転の生活を送っていますが
みなさま2026年度はいかがお過ごしでしょうか?
やっぱりアカデミアは心地がいい。
しかし、庶民感覚も忘れてはいけない。
貴族としてのノブレス・オブリージュは
庶民の立場に立って考えることだからだ。
私は常識を喪わない。
でもピロシキは食べたい。
YOSHIKIはがんばってほしい。

実家シチューです。
やっぱり親の年金で食う飯は
うまいなあ。
消えた年金の行方を捜せ!
今日、大学の特任助教になったって嘘をついたんだが
エイプリルフールの嘘ってどこまで許容されるものなの?
日本人は恥の文化と言われるが、それは名誉と結びついているからだろう。武士道精神では恥はハラキリに値するものだが、恥を持って生きながらえるくらいなら名誉のために自死するというのがあるからだろう。
騎士道精神にもそれは見られるようだ。決闘は名誉のために行われるし、名誉に死ぬことは褒め称えられる。
だがサラリーマンは恥よりも会社への忠誠心やホスピタリティに基づいて頭を下げる。怒られることは辱めではなく、大事なことだ。
謝罪は恥ではなく、頭を下げることで守れるものがある。社畜道徳はある種のパラダイム転換だろう。
土下座を極めることこそ
俺たちにできること
産声を上げた瞬間から我々は世界に身を投げ出されている
意識や認識を超えて存在者の存在を自明な次元から新たに問い直すことが
学の必要条件であろう
我々は哲学をするとき、固有の哲学者を通じてしか哲学を学ぶことができない
しかし固有の哲学者の主張がいかに哲学的であるかを知るためには
哲学一般についての先行了解がなければならない
学はこの循環の内部でしか成り立ちえず 循環を語ることはこの循環の外部に声出てしまうのであり禁忌を犯していることになる
したがって循環内部でのみ存在了解をしていなければならず学の条件もそこにある
そんなことよりも蒙古タンメン中本の北極はまだ食ったことがなく 今度挑戦してみたいと思うものだ
サウナで暑くなって水風呂に入るのも快感であるが
激辛のものを食べて汗を流して食い切るのも一種の達成感があるというものだろう
花粉がつらい