ハイデガー『ヒューマニズム書簡』第10節を読む

philo1985さんの哲学ウニベルシタス=哲じゃがにて

次回、ハイデガーヒューマニズム書簡』第10節を主題とするらしいので

予習がてら私なりに読んでまとめてみた。

 

タイトルは「存在論倫理学を超えて存在の思索へ」となっている。

 

80. エーティック〔=倫理学〕は人間の居場所(エートス)のことを考え抜くものだが、存在の真理を存在へと身を開きそこへ出でたつものとしての人間の原初的境域にほかならぬものとして思索する思索は、それ自身において根源的な倫理学になるだろう。けれどもこの思索は、存在論であるからという理由で初めて倫理学になるのではない。

 

81. 『存在と時間』:誤解されちゃった。なぜなら、初めて思索されるべき問題事象に基づいて思索されずに、常套的な意義のうちに固定された諸題目に基づいて表彰されたからだ。

 

82. 存在の真理を問い、人間本質の居場所を存在のほうから、存在へと向けて規定するような施策は、倫理学でもなければ、存在論でもない。

 

83. 思索が、存在の真理をよく思索し、フーマーニタース(人間性)の本質を存在へと身を開き-そこへと出で立つあり方として、そのあり方の存在への帰属性にもとづきながら規定するとすれば、表象する作業にすぎないものか(=理論的)、それとも活動的人生に役立つのか(=実践的)なのか?

 

84. 理論的なものでもなければ、実践的なものでもない。理論/実践の区別以前にみずからを呼び求め促して生起、存在への追想的思索にほかならない。

 

85. この思索は、存在の家を建てることに従事。存在の真理のうちに住むことが「世界内存在」の本質。

 

86. 思索は、存在の家を想像するわけではなく、ホモー・フーマーヌス〔人間らしい人間〕のフーマーニタース〔人間性〕を、無傷の健全なものの出現の領域のうちに導く。

 

以上です。存在の家に住まうことというのが気になります。

philo1985さんがどんな話を展開されるのかが楽しみでなりません。

 

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