読書家には誤読する権利がある

読書をして、アウトプットにつなげることは、単にその本に沿って技術を身につけるだけではない。

本を読むことはタイムマシンに乗ることと同義である。現実歪曲空間に誘われることであり、教訓という名前の洗礼を受けることであり、自分の世界の境域を広げるために労力を捧げる営みである。このとき、ひたすら正確に読み取ることに、拘泥する必要はない。

未知の分野であればあるほど読み取る労力はかかるわけで、誤読は避けられない。だが、読者には誤読する権利がある。仮に試験対策のために読まねばならぬとかの場合でも、まずは誤りを恐れない心の余裕がなければ始まらない。

 

読み間違いは悪ではない

 

内容の読み間違いに端を発する「ひっかかり」を経験することがかえって未知の分野の知識を仕入れる第一歩になりうる。そして、正しい読みと誤読のズレから思いもよらなかった発見、発想が生じてくる余地がある。

 

人間はすべからく無知に晒されているものであり、無知を埋めるパターン化によって知識体系を作り上げていくわけだが、「無知ゆえの誤読」は恐るるに足らない。

 

特に未知の言語で読む場合は誤読に何度もぶち当たることこそ、言語習得の道がある。