ハイデガー『ヒューマニズム書簡』第9節を読む

philo1985さんの哲学ウニベルシタス=哲じゃがにて

次回、ハイデガーヒューマニズム書簡』第9節を主題とするらしいので

予習がてら私なりに読んでまとめてみた。

 

タイトルは「存在論倫理学を超えてエートスの思索へ」となっている。

 

67. 人間性=フーマーニタスが存在の施策にとって本質的なものとして視座のうちに据えられているならば、「存在論」は「倫理学」によって補われなければならないのか?と言う問題設定である。

 

68. これはハイデガーが『存在と時間』を書いたのち、「いつあなたは倫理学を書くのか」と質問されたことによるようだ。

 

69. 倫理への要求があるとはいえ、存在が忘却されている限りでは、存在への思索が必要なんじゃないのか?

 

70. そもそも「存在論」とか「倫理学」ってことで何を意味するの?

 

71. 「存在論」も「倫理学」も分野としては古びちゃって、今何を意味することになっているのか?

 

72. 分野別の学問的諸学科成立以前に戻って、原初的にエートス(=住み慣れた場所・習慣・気質・性格〕について考えよう。

 

73. ヘラクレイトスの格言:エートスとは人間にとってダイモーンである

人間は人間である限り、神の近くに住むと言うこと

 

74. ヘラクレイトス:「ここにも神々は現存するのだから」

 

75. 解釈しよう

 

76. 思索者の訪問者たちは思索者のもとを尋ねればなんかすごいことがあるんじゃないかと思っている

 

77. 思索者たちはヘラクレイトスの普通の(?)振る舞いに幻滅してしまうが、ヘラクレイトスは「ここにも神々はいるのだから」と言った

 

78. 思索者の居場所と思索者の振る舞いとを別の光に置き入れる。当たり前の場所、どんな事物もどんな状態も、どんな振る舞いもどんな思索もみな、よく親しんだ馴染みの親しく好ましいものである。だから「ここにも神がいる」

 

79. 「(親しく好ましい)居場所は、人間にとって、神というものの(親しく好ましく-ない・尋常なら-ざるものの)現存のための開けた局面である」と

 

以上です。エートスの根源を見た気がします。

philo1985さんがどんな話を展開されるのかが楽しみでなりません。

 

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