分析哲学と言ってても結局「おける論文」になっている件について

しばしば分析哲学者に出くわすと

分析哲学は伝統とか哲学史にかかわらず

ゼロから思考を組み立てることができるみたいな

説明を受けることがある

 

 

だが実際に学会に行って

分析哲学系の発表を見てみると

マクダウェルにおける〜

ブランダムにおける〜

ウィリアムズにおける〜

みたいな発表だったり

現役で活躍している大御所の哲学者(大体オックスブリッジとかハーバードに所属している)の論文の紹介だったりして

げんなりすることがしばしばである

 

それならカントにおける〜とかヘーゲルにおける〜とかと大して変わらないしそっちの方が余程マシではないかと思われる

 

 

自分の頭で考えよ

さもなくば自分で哲学とか嘘つかないで海外の先行研究のサーヴェイでもやっていればいい

 

 

猛省せよ