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戦略的窓際社員のススメ

 

僕はJTCで年収98万

扶養の範囲内で窓際社員をやっている

元々うつ病なので診断書一つ会社に提出すれば

出世コースから外れるのは容易いことだ

仕事も雑用以外に特に振られることもないので

勤務時間中に論文を集めたり読んだりしている

 

研究をやりたければクリエイティブな仕事に就くのがいいと言いがちだが

むしろクリエイティブなことは仕事にせず

隙間時間にやるのがよいというものだろう

 

仕事と研究とを両輪でやる

みたいな考えは幻想だ

 

研究は研究のみに没頭することによって

研究の自律性が保たれるのであり

労働などという資本制に支配された

概念を混ぜ込むと途端に不純物となってしまう

 

研究は魂の浄化であり

天は研究をそのような仕方で与えたもうたのである

 

最終的には

アカデミアが天国である

大事なことは結論から話すな

社会人になると

まずは結論から話せと言われる

 

確かにそうした方が話はスムーズになるだろう

 

しかし会話というのは

相手との時間を過ごすことで

親愛の情を抱かせるものであるから

まずは前置きからグダグダ話して

ダラダラ結論を引き延ばす方が

退屈しないというものだ

 

現実解

 

結論は引き伸ばせば伸ばすほど

相手の期待感を高めていく

 

スフィンクスうにゃむにゃネット

退陣要求

結局退陣表明はしていないわけだが、

君たちは何か自分のついているポジションに対して

退陣要求をされたことがあるだろうか?

 

この問いに対して

答えを色々と予想してみるが

話を広げられる気がしないので

今日はこの辺で勘弁しといてやるぜ

 

じゃあの

 

 

いま哲学史をやる意義はない

かつてなら哲学系の学会で発表内容が「◯◯(哲学者名)における××」といったものが多かっただろうが、今やおける論文というのも減っていきトピックベースの発表や論文が増えてきた。日本人もようやく自律的な哲学をやる時期が来たのだろう。

だからこそ、もう哲学史などやらなくていいと言ってよいのではないか。ギリシア哲学、ドイツ哲学、フランス哲学、イギリス哲学、いろいろあろうが、私のかつての恩師は言っていた。「哲学は国籍ではない」と。哲学は普遍を目指すものであり、歴史性からいかに解放されるかが問題なのである。

かといって哲学史に身を置く人を否定するわけではない。ただ哲学史で食おうとするのは違うと思う。哲学史はプロではなくアマチュアや在野の研究家が趣味でやればいいのであって、プロは現在の問題に関わらなければならないのである。

特に現在のプロ哲学者はELSIをやるべきだろう。ELSIは文理融合型で人文社会学系にも関わらず、理系と手を組み、今後の科学研究場の課題を扱うというものだ。こういうものこそ現代の哲学者が研究するに相応しい分野であり、岩波文庫なんて読んでるのは衒学趣味者だけでよい。

難波優輝『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために 』を読んで

今日は会社帰りに日課であった書店に寄ってきたのだが

タイトルの本を購入し読んだ

 

 

 

 

ネタバレはなるべく避けたいので

内容には触れずに言及したいのだが

出版社ホームページでは

 「「物語」が過剰に要求される現代社会で、「人生とはかくあるべきだ」という押しつけに抗う。」

とあるように

ある意味で人生の意味が問われている

 

人生には達成すべき目標があり

それに向けて日々精進すべきだという価値観があろうが

この本はそんな通年から解放し

人生を「遊び」という枠組みで捉えようとするものだ

 

遊びというと

例えば車のアクセルには

アクセルがかかる部分と踏んでも何もかからない

いわば「遊び」の部分があるのだが

ガチガチにアクセルを固めると

踏むとすぐに反応してしまうためかえって危険である

 

同様に

人生も目的や計画にがんじがらめにされてしまうと

それが失敗したり遅れたりした時に

ガタガタに崩れてしまう危険がある

 

だからこそ

目標は決めてもいいが

遊びながら

ゆったりダラダラ人生を生きる方が

安全だし崩れないし気が楽というものだ

 

かくいう私も

研究者になろうと大学院博士課程に進むも

研究は芳しくなく民間就職して

働きながら研究を続けているが

こういう回り道をする景色というのもなかなか悪いものではない

 

人生長いのだが

その長さを深く考えず

目の前のことだけに囚われて

景色が見えなくなってしまう人もいるが

それは大変勿体無いことだ

 

人生は山登りのようなレジャーみたいなもので

ゆっくり遊びながら進んでいくのがよかろう